Vol.27 ふとんの話①

安眠シリーズ第2弾は、日本伝統の寝具である「ふとん」を取り上げます。調べてみると意外な事実がたくさん。まずは歴史を紐解いてみましょう。
平安時代の敷きぶとんは「たたみ」だった
ご存知の通り、ふとんには敷きぶとんと掛けぶとんがありますね。中綿(なかわた)の材質は、木綿のほかに羊毛、羽毛、化繊などが代表的。でも、昔々のふとんは現在とはまったく違うものでした。日本最古の史書「古事記」によると、平安時代(794年~1185年頃)の貴族は、板の間の上に高さ数十センチの木の台を作り、その上に「たたみ」を敷いて寝ていたそうです。これが敷きぶとんのルーツです。
そのたたみも現在の形ではなく、最初はただ稲ワラなどを編んだ「むしろ」を何枚か重ねて敷くだけのもの。つまり、床からの冷気を遮るためのものでした。その後、より快適に眠れるように絹や毛皮でつくった敷布「しとね」が使われるようになります。男女の仲をあらわす「しとねを共にする」というのは、そんな歴史的な表現だったのです。
一方、こうした「たたみ」や「しとね」を使えない庶民は、ただのワラなどの身近な自然素材を敷いて、その上で寝起きをしていました。海に近い漁村では、乾燥させた海草の上に寝たり、のちにはそれをふとんの中綿に使うこともあったとか。また、当時、掛け布団はなく、貴族も庶民も昼間着ていた服を脱いで、体にかけて眠っていました。
平安時代末期になると、衿や袖のついた寝具「掻巻(かいまき)」が生まれます。これは昼間の衣服を少し厚めにしたようなもので、掛け布団のルーツです。素材は真綿。つまり絹です。近世になり、木綿の綿が普及するまでは上流階級ではこの真綿が、庶民の間では麻の布や木の皮で編んだ布が広く使われていたのです。
木綿の普及とインド人と秀吉
日本に木綿がはじめて伝わったのは、延暦18年(799年)の夏のことだとか。崑崙人(こんろんじん)の若者が、三河国(いまの愛知県)に種を持って漂着したのが最初です。インド人ともいわれるこの崑崙人は、その後、綿花の栽培を村人に教え、さらに勅令によって西日本各地に種を蒔いたそうです。でも、この木綿の種は日本の気候風土に合わなかったようで、一部地方を除いて綿花栽培が日本に根付くことはありませんでした。
日本の気候風土に合う綿花は、応仁の乱が終わった文明9年(1482)頃、中国から朝鮮半島を経由して伝来したといわれています。以後、三河以西の温暖な地方に、綿作と織布が広まり、商品として売り買いされたという記述が多くの文献に見られます。そして、豊臣秀吉は朝鮮出兵(1592~1598)の際に、現地から木綿の栽培や製糸、織物を作る技術者を連れてきて、綿花の国産化を始めました。これをきっかけに、江戸時代になってようやく、木綿は日本で本格的に普及したといわれています。
木綿の国産化により、江戸の初め頃に現在と同じ木綿の中綿の「敷きぶとん」が生まれます。とはいえ綿花は高価で、当時の敷き布団3枚の値段はなんと百両。一両はおよそ12万円ですから3枚1200万円、1枚が400万円もする大変な贅沢品だったのです。ですから、庶民はもちろんまだまだ使えません。大名などが使うほか、豪商たちが遊郭の花魁にプレゼントをしていたそうです。花魁には厳しい格付けがあり、ランクの高い花魁ほど多くの敷き布団を持つ事ができたとか。
これほど高価だった理由は、木綿が元来採れる量の少ない作物だから。木綿は年一回秋のみの収穫で、1エーカー(4046平方メートル)の畑からわずか1俵(225キロ)しか採れません。敷きぶとん1枚分の綿花6.0キロを採るためには108平方メートルもの広さの畑が必要なのです。ですから、江戸時代になっても庶民にはやはり高嶺の花。代わりに紙の寝具などが使われていました。
庶民に普及したのは明治中頃以降
庶民が自分専用のふとんを持てるようになったのは明治29年(1895年)以降。綿の関税が廃止され、低価格な中国の天津綿が輸入されるようになってからのことです。木綿の中綿のふとんは、次第に生活用品として日本の家庭に溶け込むようになります。半面、安い天津綿に押され、国内の綿花栽培は衰退の道を辿ることになったのです。
昭和30年代になると、軽量なポリエステル綿を使った掛けぶとんと、ウレタンフォームの敷きぶとんが開発され、合繊ふとんがブームになりました。洋風の柄の「洋掛けふとん」が発売され、ライフスタイルの欧米化とともに、これら安価な合繊ふとんが日本の家庭に普及して行ったのです。さらに1970年から80年にかけての高度成長期には、最高級掛けぶとんとして「羽毛ふとん」が、おなじく最高級敷きぶとんとして「羊毛敷きぶとん」が流通するようになりました。これらに比べて重い木綿のふとんは、このころから徐々に需要が減少してゆくことになったのです。






